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静岡県大井川水系

平成13年6月30日〜7月01日
八木大輔、川久保秀幸、田辺哲、高野智


 
Text&Photo:高野 智


初めての渓へ
 南アルプス赤石山脈の3000m級の山々から流れ出し静岡県を貫いて流れる大井川。
 大井川の名は古くは『日本書記』に記述を見ることができる。その流れは168kmにも及び、流域面積は1,280平方キロメートルという雄大な川である。

 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 馬小唄に歌われたように大井川は昔は東海道一の難所。徳川幕府は江戸の守りを考え大井川には橋を掛けさせなかった。その時代は川越人足がおり、旅人たちはお金を払い人足の世話になり難所を越えていた。だが、いかに屈強な人足といえども大雨で増水した大井川を渡ることはできなかった。そうなると旅人たちは足止めをくわされ、長いときは数十日も宿場に留まらねばならなかったようである。

 大井川は渓流釣りを始めたときから私の頭の片隅にあった。その昔、源流部は40cmクラスのアマゴが群れ遊ぶ渓だった、というのを聞いていたからである。いつも東北の渓をメインにしている渓道楽であるが、今回はネット仲間の八木さんの計らいで、彼の地元、静岡の大井川水系に足を踏み入れることとなった。大井川水系は数多くの支流を持ち、釣り場として一級の価値を持っている。その中でも八木さんの大切にしている渓に案内してもらえることになり、大感謝である。

 静岡ICで八木さんと待ち合わせた。途中首都高の渋滞に巻き込まれ、1時間ほどロスしたが、無事再会を果たした。
 今回のメンバーは静岡の好青年八木さん、渓道楽からは事務局長ナベちゃん、そして今回初渓泊まりの川久保さん。余談だが川久保さんは耳が不自由なのだが、渓流釣りに掛ける情熱は誰にも負けない。しっかり体を鍛えハンデなどものともしない男である。そして、歩けない、担げない、泳げない、と三拍子そろった、私(高野)である。今回もテン場まで4〜5時間。今年初源流ということもありバテるのは必至である。もっとも私の場合は初だろうがシーズン終わりだろうが、同じようにバテるのだが・・・。

 車止めには暗いうちに到着した。幸い一台も止まっていないので、先行者は居ないようだ。疲れた体を横たえると、あっという間に深い眠りに落ちた。

ヒルにはパンスト
 川久保さんがゴソゴソと起きだした気配で目が覚める。いつもながらちょっとの睡眠ではとても眠い。バテるのは寝不足も原因だろうが、他の人も一緒だから、これは言い訳に過ぎないだろう。
 ここ大井川源流域はヒルの生息地帯。今までヒル生息地帯には足を踏み入れないようにしていたのだが、ヤマトイワナとアマゴの誘惑に負けてしまった。ヒルにはパンストが一番と聞き、カミサンのを2枚失敬してきた。車止めでパンストを履くオッサンを他人が見たら気色悪いだろうなぁ。
 ナベちゃんも私が履くのを見て「俺も持ってきたから履こうかなぁ」と取り出した。足を突っ込むナベちゃんだが、「ムムッ」
「なんだ、どうした」
「足が入らないなぁ」
「そりゃ、ナベちゃんの体格じゃ、奥さんのパンストは履けないんじゃないかい」
「やっぱダメかな、そりゃ!」
「ビリビリ!」
「ギャハハハ! 破いちゃったよ。」
という訳でパンストは諦めて、ヒルにチューチューされる道を選んだナベちゃんであった。

 さて、準備も整った4人は夜明けの林道を歩きだす。空はどんよりと曇り、厚い雲に覆われて天気が気にかかる。このところずっと雨が無く、暑い日が続いていた。このままでは釣りに影響が出そうだなと思っていたので、降ってくれればありがたいのだが、歩いているときに降られるのは気が滅入るものだ。まあ、そんなに都合良くは行かないのが世の常であろう。

 しばらく行くと第一の林道崩壊現場に出くわした。いきなりのアルバイトに私は息が上がってしまう。まだ歩き出したばかりなのに、これから先が思いやられる。道はいたるところで崩壊し、谷底まで一気に滑り落ちていた。そのガレの上を越えて行くのだが、足場が崩れれば谷底までの数百m滑落だ。途中八木さんが崩落地点を越えていたとき、手にしていた残置ロープのハーケンが抜け、危うく落ちるところだった。素早い身のこなしで事なきを得たが、通いなれている八木さんでもこうであるから、なおさら慎重になってしまう。
 大井川水系の山はとても岩がもろく、林道は砂糖の山につけられたアリの道のような状態であった。こんなところに道を作っても金のムダである。途中あった橋の苔むした欄干には「昭和37年完成」とあった。私が生まれる前であるが、いったい何年使用に耐えたのだろうか。

 バテバテになった足に鞭打ち数時間歩くと大崩落にぶち当たり、先にはぬりかべのように立ちはだかる垂直の5mほどの岩が見える。残置ロープが下がってはいるが、思わず、「アレ登るのぉ、聞いてないよぉ」という言葉が口をついて出てしまった。平らなしっかりした地面があって、そこから5mくらいならどうってことない。だが、そこは崩落したところから登らなくてはならない。落ちればまたまた数百m滑落だ。
 なんて思っていたら八木さんはスルスルと登ってしまった。続いてナベちゃん。ちょっと苦労している様子。川久保さんもクリアして、私の番である。「落ちたら洒落にならないよなぁ。家にはかわいい3人の子供が・・・」などと心の底で思いながらロープを掴む。でも登り始めたら意外と苦労せずに行けた。「あ〜、良かった」

 そこからは下降点の尾根までは直ぐだった。ザックを降ろし大休止して一息ついてから、渓への急な下降を始めた。川久保さんは足がつったと言いながら、いいペースで降りていく。だが、私は体重+ザックの重みを支えられる筋力が残り僅か。まさにヒザが笑うとはこのことだ。皆から遅れながらも何とか下降していく。
途中、皆で休憩していると踏み跡にドバミミズが出てきていた。「お、餌だよ、餌」と八木さんが捕まえていると、やたら長いのが一匹。よく見るとミミズじゃない。これはひょっとしてネットで話題になったコウガイビルか。長さは20cmくらい。扁平な茶色の体をくねらせ進んでいた。創造主は地球に多くの生き物を誕生させたが、中には奇怪なものも作ったもんだ、などと思ってみていたら、斜面を下に向かって凄い速さで下って行ってしまった。降りることに関しては私なんかより数段優れた生き物であった。

 そこからもまだ長かった。先ほどから雨が強くなりだし、眼鏡を掛けた視界は水滴で遠近感が捕らえられない。まったく邪魔な眼鏡だ。目の筋肉が鍛えられるなら、まっさきにそこからトレーニングするのに。
 踏み跡を辿りながら思ったのだが、ナベちゃんはまるでダンプカーのようだった。ちょっとの障害などものともせず、ドスドスと下っていく。さしずめ私は軽自動車か、いや、原付くらいか。え、三輪車? そ、それはちょっと言い過ぎでしょう。

雨に煙る大井川

渓に掛かる朽ちた釣り橋
ツワモノどもが夢のあと・・・
テン場前の渓は開けていた
土砂降りでも澄んだ流れ

 なんとか谷底に降り立ったころには、雨は土砂降りとなっていた。適当な支点が無いためタープを張るのに随分と苦労してしまった。全身ずぶ濡れになってしまった体は体温が奪われ、ブルブルと震える。もし遭難してこのような状況になったら、間違いなく死ぬんだろうなと考える。ホントに体が動かないのである。それでも自分だけ休んでいる訳にもいかないので、いそいでタープを張り逃げ込んだ。着替えをしてようやく人心地がついたが、このままの降りが続くのなら今日は釣りはいいやと思わせるほど、元気がなくなっている私だった。漫画で言う顔に斜線の入った感じといったらお分かりだろうか。

 タープの下で雨を避けながら流れを見ると、これだけの降りにも関わらず、水は澄み、水嵩も増えていない。山形の荒川あたりならとっくに泥にごりの濁流が渦巻き、荒れ狂っているだろう。これは周りの岩がもろいのが幸いして、隙間に水が染み込んでいくからなのだろうか。この程度の雨では大井川水系は平静を保っているように見えた。

 早めの昼飯を食べている間に雨が小降りになってきた。ナベちゃんが「さぁ、釣りだ釣りだ。なに、高野さん行かないの? じゃ、皆釣ってきちゃうよ ガハハ」などとのたまっている。それはいくらなんでも癪である。ナベちゃんだけにいい思いはさせないよと、急いで準備を整えタープから抜け出ると、目の前の瀬でもう釣り上げているナベちゃんの姿があった。型も8寸くらいで嬉しそう。テン場からの斜面を転がるように駆け下り、合流して上を目指す。対岸に渡りちょっと行くと、すぐに大岩が転がるゴーロ帯となり落ち込みや小滝が連続して現れる。大岩をのっ越し落ち込みの深みに餌を入れると、とたんにアタリが出る。抜き上げるとヒレピンで素晴らしく美しい魚体のヤマトイワナである。普段ニッコウイワナばかりを釣っている我々には、その魚体は同じイワナという名前の魚には思えなかった。イワナは渓によって随分と違うというのは皆さん良くご存知だと思うが、ヤマトイワナはパーマークがくっきりと浮き出て、とても美しい。
「こりゃ、入食いだぜ!」
 皆の歓声が雨に煙る渓にこだまする。落ち込みごとに誰かの竿がしなり、渓の宝石が舞う。手のひらに伝わる心地よい岩魚の引き。2ヶ月ぶりの渓は最高のステージを用意してくれていた。

大井川爆烈
 ナベちゃんが一段上の落ち込みから魚を抜き上げた。「お、結構良い型。9寸くらいあるか」と見ていたら、「アマゴだよ、アマゴ!」と叫んでいる。八木さんと二人で駆けつけると、確かにパーマークのくっきりと出た天然のアマゴだ。珍しくメジャーをあてるナベちゃん。
「おお! 尺あるよ、尺。31cmだ」
 スゲー、こんな美しい尺アマゴ初めて見た。今まで何度かアマゴを釣っているが、こんな綺麗なのは見たことが無かった。銀毛しておらず、薄緑色というかなんというか、とても言葉では言い表せない色。ヒレは大きく朱点は宝石を散りばめたようであった。
「ここで、アマゴが出たのは初めてですよ。ここらでも居るんだ」
と八木さんが驚きの声を上げる。
「くそー、カメラがあればなぁ」
土砂降りの雨にとてもじゃないけど写真は撮れないと、テン場に置いてきてしまったことをどれほど悔やんだことか。
渓の女王はナベちゃんの手で優しく流れに帰されると、我々の視界から深みへと去っていった。

渓はゴーロとなり高度を上げる

 雨もだいぶ小降りになり、ほとんど気にならないくらいになっていた。川久保さんは粘っているのか、追いついてこない。せっかくだから先頭に出ておいしい所を釣ってもらいたいのだが。
 3人はその後も落ち込み毎の魚を掛けながら、遡行していく。岩魚たちは、狂喜乱舞。久しぶりの雨に我を失っているのだろう。これほどの岩魚たちが普段はどこに隠れているのだろうか。渓は岩魚で溢れ返っているのではないかと思うほどの釣れ方である。

 やがて釜を持った3m滝が視界に入ってきた。大物に備えて仕掛けを張り替えるナベちゃん。渓を知り尽くして冷静に進む八木さん。私の心の中は絶好のポイントの出現に浮き足立っている。


釜が見えたとき不思議な予感がした
ここに多くのイワナが溜まっているとは思いもしなかった
絞り込まれた流れは3mの高みからほとばしる


釜は大きく深く、渓流竿では歯が立たない

 近づいて見ると釜の直径は30mほどだろうか、駆け上がりはエグレになっていて沢山の魚が付いて居そうな予感がする。女性のくびれたウエストのように絞り込まれた流れは3mの高さから釜に向かってほとばしり、重く力強い流れが複雑な水流を生んでいた。ゆっくりと近づいた我々は左にナベちゃん、右に八木さん、真中に私と分かれてポジションを取った。3人の6つの瞳は多くの経験から複雑な流れの筋を読み、もっとも的確なポイントを探っていた。
 大き目のドバをハリに刺し、駆け上がりに向かって流れてくる筋に振り込む。仕掛けはゆっくりと沈み、底の流れを捉えた瞬間にアタリが出た。魚がハリまで餌を飲むのを待ってアワセをくれる。上がったのは8寸クラスのヤマトだった。

 ふと、ナベちゃんを見ると大きいのを取り込んだ様子。
「尺でたよ」
崖の際から出たのは尺物ヤマトらしい。私の竿にも次から次へと岩魚が掛かる。取り込む、放す、餌を付け直す、振り込む、また取り込む、放す。その繰り返しが延々と続く。八木さんも次々と岩魚を釣り上げていた。
お、八木さんにも尺岩魚が来たようだ。

ヤマトイワナ尺一寸
案内役の八木さんに女神が微笑んだ
美しいヤマトイワナ
見慣れたニッコウイワナと違う輝きを放つ

 いったいこの釜には何尾の魚がたまっているのだろう。次から次へと際限なく釣れてくる。それも全て7寸以上の型揃いだ。今までの渓流人生(と言っても10年にも満たないものだが)の中で、これほどの入食いに出会ったことは無い。毎週のように釣りに行っているナベちゃんでさえ、こんなのは初めてというのだから、ほんとに良い日に当たったものである。

 3人合わせて60〜70尾は釣っただろうか。いいかげん餌も底をついてきた。時間的にも3時近くとなり、そろそろテン場にもどって晩飯の仕度をしなければならない。まだまだ釣れそうだったが、後ろ髪を引かれる想いで滝を後にした。
滝は簡単に巻けるのだが、あまりに釣れすぎて先へは進めなかった。こんな贅沢な悩みなら毎回でも大歓迎なのだが。

雨で濡れたマキに火をつけるが、さすがにつきが悪い
今晩は焚き火無しの寂しい宴会だろうか
ハンゴーで飯を炊く
コツさえ掴めば美味い飯が炊けるのだ

 テン場に戻り早速宴会の準備を始めた。再び降り出した雨で焚き火のつきも悪い。今夜は焚き火無しの寂しい宴になってしまうのだろうか。渓での楽しみの一つを奪われちょっと残念な我々であった。

 そうは言っても渓泊まりは楽しい。次から次へと美味い料理が出てきて、ナベちゃん、八木さんの大酒呑み二人はグイグイと杯を重ねていく。ナベちゃんの作ったイワナのちらし寿司が物凄く美味い。川久保さん、八木さんの料理もこれまた美味であった。

 八木さんの持ってきた1升の酒が無くなる頃には、川久保さんは夢の中。初めての源流行で疲れたのだろう。八木さんもゴロリと横になって眠ってしまった。残された二人は釣りの話に花が咲く。最後に私が青椒肉絲を作り、寝る前の腹ごしらえ。渓の音を子守唄に心地よい眠りに落ちていった。

沈黙の滝壷
 タープを叩く雨音に目が覚めたが、辺りは闇に包まれている。渓に冷たい風が吹き、寒くて何度も目が覚めた。ナベちゃんの気配にとなりを見るとタバコをふかしている。どうやら夜が明けたようだ。雨は上がり谷底から見上げる空は昨日とは打って変わってどこまでも青かった。
 昨日瞳に写った渓は雨にかすんだ水墨画のようであったが、日差しを浴びた今日の渓は木々の緑が艶やかな輝きを放ち、まるで別の場所にいるような錯覚を覚える。

昨日とは別の顔を見せる渓
日差しは青葉を貫き、みなもを輝かせる

 残り飯で雑炊を作り腹ごしらえをする。時間はまだたっぷりとある。昨日の釜を再び攻めるべく、私と川久保さんは出かけていった。釜まではただ歩くとあっという間である。昨日の入食いが鮮やかに心に蘇ってきて、餌をつけるのさえもどかしい。「さあ、今日も頼むよ」と仕掛けを振り込んだが、そこには昨日とは別人のように沈黙した釜が、満々と水をたたえて静かに存在するだけであった。
結局そこでは7寸を1尾釣っただけで終わってしまった。昨日のことは夢か幻だったのだろうか。岩魚たちは冷静さを取り戻し、いつもの渓の静けさが辺りを支配していた。

 楽しかった釣りも終わりである。下界に帰るために重い腰を上げ撤収を始める。これから1時間以上のキツイ登りが待っていることを思い出した。ただ、腹を減らした吸血鬼たちが葉っぱの上でダンスを踊っていることだけは私達も忘れていた。

 今回の釣りは八木さんの好意で実現した素晴らしいものだった。彼がこの渓をいかに大切にしているかは、帰り道で他の釣り人の残したゴミを拾いながらきたことで良く分る。
 なぜ平気でゴミを捨てて行けるのだろうか。コンビニおにぎりの包みなど10gの重さもないだろうに。相変わらす心無い釣り人がいることは残念であった。
 八木さんのような釣り人ばかりなら、渓はもっと綺麗になると思うのだけれど。


私の源流行デビュー記 大井川 川久保編

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